日本の片隅にいる20歳女子のひとりごと

ある人のブログに感化されて始めてみました。文章を読んだり書いたりすることが大好きな20歳女子です。

ざんねんな世界

8月17日付の新聞で、イスラエル高官のFacebookの記事投稿が問題になっていた。
「広島、長崎の平和記念式典は独善的だ。」「うんざりする。」「日本人が本当に追悼すべきなのは、中国や韓国やフィリピンだ。」とかとか。

広島はこの行為に強い怒りが湧いたということだったけど、それは正しい感情だっただろうか。

私は広島出身だから、毎年8月6日8時15分に一分間の黙祷をする。
 
だけど考えてみたら、このたった1分間の黙祷がどれだけの人に影響を与えられているんだろう。実際私にとってはあんまり影響がない。日本人、ましてや広島人すらきちんと理解できていない平和記念式典を外国人に理解しろというのはちょっと理不尽だと感じた。

広島は今まで、被爆者に多くの原爆手当を渡してきた。そして今は被爆者がいなくなると嘆きまくってる。

そうやって被爆者を奉り、追悼を中心とした内容の平和記念式典を毎年行ってきた。「平和記念式典」と言いながら、追悼を中心としてる。「原爆追悼式」ではないはずなのに。。
それは実際わたしでもうんざりだなって思う。
68年前広島は「平和記念式典」を作った。
68年前の地獄を被爆者が平和の記念に掲げたのは、自分たちが今享受できない平和でも、未来に平和を願ったからである。もう二度とこんなことを繰り返さないように。これっきりになるように。そういう人々の願いがこの式典をうんだ。

でも実際には追悼が中心で、平和記念はついでになってしまってる気がする。高官がうんざりに思ったのも追悼が目立つ式だったからじゃないだろうか。

だったら、追悼だけでなく、平和のために何をするべきかを考えられる式典にするべきではないかと思う。

イスラエル高官に言われなくても、日本人が戦争でどれだけ凶悪な殺し方をしたかは知っている。授業できちんと伝えられていないほどにひどかったらしい。

だけど、平和記念式典は被害者や加害者の立ち場を超えて、もう二度と繰り返さないよう呼びかけることがもともとの意義だったはず。

戦争ではたくさんの人がなくなり、皆がひどい思いをした。それは国境関係なく皆おんなじくらい苦しんだと思う。だからどの国でも二度と繰り返してはいけない。

平和記念式典の参加意義をもう一度見直す機会を作り、考えていきたい。
平和を祈る行為は独善的でも、偽善者でもないはずだから。

最後に、イスラエル高官への怒りは平和的じゃない。広島も大人になりたいなと思った記事でした。